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参考資料7 全国B型肝炎訴訟原告団・弁護団と大臣の定期協議 (13 ページ)

公開元URL https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_44257.html
出典情報 肝炎対策推進協議会(第33回 10/11)《厚生労働省》
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そうしましたら、3つ目のテーマについて、患者講義の活動について、お願いいたします。
大阪原告団の横山さんから、お願いいたします。

○横山氏
大阪原告の横山功一です。
現在58歳です。妻と2人の子供がいます。娘は、この春、社会人になり、息子は大学2年生です。
私は、9年前に初めて患者講義を経験しました。現在 43回担当し、他の患者講義にも関わって
きました。最初に患者講義に参加したときは、悔しい気持ちをぶつけたいという思いからでした。
私は、幼い頃から絵を描くのが好きでした。母もそれを喜んでくれました。母も器用で、何も見な
くても象や犬の姿がセーターに編み込まれていきました。本当に不思議でした。私は、母が編む姿
を見るのも、つくった服を着るのも好きでした。
その母が、私が中 学生のとき、5人の子 を置いて家 を出ました。とても苦 しみましたが、一 番上
の兄である私は、まだ幼い妹や弟のために元気に振る舞いました。
35歳のときに、B型肝炎ウイルスへの感染を告げられたとき、医師から母子感染だろうと言われ
ました。私は母に対して、性感染症までうつしたのかと思い、許すことができませんでした。このとき
から10年、母とは交流を断ち、孫にも会わせませんでした。
その頃、アパレルブランドをつくる夢を抱きました。当時、大手アパレルメーカーに勤務していまし
た。主力の婦人服ブランドの責任者も担当しました。私は、服を見れば、どうアレンジしたら売れる
のか、デザインが頭に浮かびました。試作した服を着た妻はとてもうれしそうでした。自分がデザイ
ンした服で笑顔を増やしたい。夢を抱いた私は仕事をしながら、夜間の服飾専門学校にも通いまし
た。そして、44歳のときに、仲間とブランドを立ち上げました。
しかし、その直後、体が動かなくなりました。休んでも疲れが抜けず、気力も体力もなくなりました。
仲間や得意先に迷惑をかけてしまう前に辞めなければと、退職を決断しました。そのとき45歳、娘
が小学5年生、息子は小学校に入学する年でした。
退職後も、体調はよくならず、受診したら緊急入院になりました。肝炎の急性増悪で生死をさま
ようまで悪化していました。医師から肝移植が必要と言われました。私は家族から肝臓 をもらいたく
ありませんでしたが、家族はドナーになると伝えていたそうです。その家族に対して、肝性脳症を発
症した私は、傷つける言葉を吐いていたそうです。妻は、私の死を覚悟し、子供たちをどうやって育
てていこうかと考えたとのことです。
医師や看護師の献身的な治療のおかげで、2か月後に退院できました。肝炎は、ひとまず治ま
り、命も取りとめました。家族もほっとしました。
しかし、退院後、絵が描けなくなってしまっていました。店を渡り歩いていろいろな服を見ても、新
しいデザインが全く思い浮かびません。病気の影響か、肝性脳症のためか、薬の作用か、心の問
題からか、原因は分かりません。でも、イメージが湧いてこないのです。仲間は戻ってこいよと声を
かけてくれました。しかし、自分はもう役に立たないと思い、断りました。
描くこと。これはどこかで母とのつながりも感じていた力でした。自分自身をつくり上げていたもの

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