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参考資料1 井上参考人提出資料 (22 ページ)
出典
公開元URL | https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_44713.html |
出典情報 | 妊娠・出産・産後における妊産婦等の支援策等に関する検討会(第5回 11/13)《厚生労働省》 |
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22
3.
すべての母子に「心のプロバイオティクス」を
大阪母子医療センター 新生児科 北島博之
では 1970 年前後にこの日本で一体何が起こったのだろう。 全国的に 1960-1970 年の間に、自
宅出産から病院出産に大きく変化した。 これは米国でも病院出産が確立した 1930-40 年の時と同
様のことが起こっていた。 今回フィリスクラウスさんとその夫マーシャルクラウスご夫妻が書かれた
1993 年出版の「TMothering the mother」の日本語版への序文を引用してみよ25。
「産科病棟へ入院してきた母親を観察していると、 産婦は、惑怖と不安に満ちてベッドに横た
わり、 診療を受けるのを待ちわびながら、 自分のところへ誰か来てくれないか目で追い求め、 忙し
い陣痛室で、たった一人で陣痛に苦しむ他の産婦を見ながら、 苦情を訴えるのでもなく、子宮収縮
ごとに起こる痛みに苦しみながら、 一所けん命健気に頑張っている。 それは今日 、 米国だけでなく
日本でも、 近代的な大小の病院でよく目にする、ごくふつうの光基である。 陣痛に苦しむ母親に家
族の付き浅いは許されても、 彼らは未経験であり、 病院スタッフには頼ることができないため、 助け
たくてもどうして良いのか全く判らない状態である。 医療スタップは多忙なため、 家庭分燃のときの
産婦には、 出産の大事な部分としてごくふつうに行なわれていた一対一の支援ができなくなってし
まったからである。
母親になった女性は、 出産を最悪の経験として、また逆に最良の経験として思い出す。 母親た
ちは、自分たちが一人きりにされ、 何が起こっているかわからなかったとき、どれだけ恐ろしい想い
をしたか憶えている。 どれだけ誰かに一緒にいてもらいたいと思ったか、また、 自制心を持つことが
できていたら、 あるいは親切に取り扱われ、自分の脳力が発揮できる状態でやったらどれだけよか
ったかと思い出す。 また自分たちがいかに無視されたと感じ、 自制力を失い、 耐え難い痛みと無能
さを感じていたかを思い出す。 ・. 不幸にも、 両国における家庭分圧の最も大切な要素、すなわ
ち熱練した女性によって分婚の全過程を通じて与えられる継続的な一対一の情緒的支援「エモー
ショナル・サポート」が病院の管理によって失われてしまった。 この支援がた失われたことが、 大きな誤
りであったと判明するまで数十年が経過した。 当時は誰もその重要性に気付くことのないまま、 両
国の産婦たちらは「無痛分學」を求めて病院へ殺到していった。 」現代の日本がまさに、今同じ状況
である。
日本でも病院出産になって、 同様のことが起こっている。 自宅出産は、我が家の布団の上で行な
われ、 小さい頃から良く知った産詞さんが、1 対 1 ケアで母をほめてリラックスさせオキシトシンを出
させてくれて、 自分で産あことができた> >ところが、 病院出産では、 初めての陣痛室で陣痛が進
んで全開近くになるまで一人にされて不安が高じしてくると、 陣痛が速のくこともよくある。 痛みを我慢
しながら全開近くになるまでいきまないように我慢をするように指導され、 全開近くになると、 自分が
産まれて初めて入る分學室に入り、 恥ずかしい格好でお股を広げて分學台に乗り緊張する。 外来
で見ていただいた産科の先生でない先生が付くことも多く、 また見知らぬ助産師さんが交代で頑張
れと応援してくれるが、 不安のためになかなかオキシトシンが出ない。 そのため陣痛がうまく来ない
と、オキシトシンの点滴を受け、 強い痛みによりパニックになるお母さんも多い。 また、病院出産の
始まりの頃は、 第2期(子宮口が全開から既出まで) を短くするために全例会陰切開をしていた病
院も多く、 分學後はお下の痛みが続いて、 母乳もゆっくりあげられないと言うお母さんも多かった。
日本の歴史上始めて医療施設分将がほとんどを占めるようになってから 50 年近くが経った。 今
40 蔵台の母親たち(2005 年の読売テレビのビデオに出ていた方々)を生んだ祖母たらちは、この大
きな変化を受けた最初の世代である。 医師と見知らぬ助産師による分學台を用いたお産で、さらに
完全母子異室制であった。 (図5)
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すべての母子に「心のプロバイオティクス」を
大阪母子医療センター 新生児科 北島博之
では 1970 年前後にこの日本で一体何が起こったのだろう。 全国的に 1960-1970 年の間に、自
宅出産から病院出産に大きく変化した。 これは米国でも病院出産が確立した 1930-40 年の時と同
様のことが起こっていた。 今回フィリスクラウスさんとその夫マーシャルクラウスご夫妻が書かれた
1993 年出版の「TMothering the mother」の日本語版への序文を引用してみよ25。
「産科病棟へ入院してきた母親を観察していると、 産婦は、惑怖と不安に満ちてベッドに横た
わり、 診療を受けるのを待ちわびながら、 自分のところへ誰か来てくれないか目で追い求め、 忙し
い陣痛室で、たった一人で陣痛に苦しむ他の産婦を見ながら、 苦情を訴えるのでもなく、子宮収縮
ごとに起こる痛みに苦しみながら、 一所けん命健気に頑張っている。 それは今日 、 米国だけでなく
日本でも、 近代的な大小の病院でよく目にする、ごくふつうの光基である。 陣痛に苦しむ母親に家
族の付き浅いは許されても、 彼らは未経験であり、 病院スタッフには頼ることができないため、 助け
たくてもどうして良いのか全く判らない状態である。 医療スタップは多忙なため、 家庭分燃のときの
産婦には、 出産の大事な部分としてごくふつうに行なわれていた一対一の支援ができなくなってし
まったからである。
母親になった女性は、 出産を最悪の経験として、また逆に最良の経験として思い出す。 母親た
ちは、自分たちが一人きりにされ、 何が起こっているかわからなかったとき、どれだけ恐ろしい想い
をしたか憶えている。 どれだけ誰かに一緒にいてもらいたいと思ったか、また、 自制心を持つことが
できていたら、 あるいは親切に取り扱われ、自分の脳力が発揮できる状態でやったらどれだけよか
ったかと思い出す。 また自分たちがいかに無視されたと感じ、 自制力を失い、 耐え難い痛みと無能
さを感じていたかを思い出す。 ・. 不幸にも、 両国における家庭分圧の最も大切な要素、すなわ
ち熱練した女性によって分婚の全過程を通じて与えられる継続的な一対一の情緒的支援「エモー
ショナル・サポート」が病院の管理によって失われてしまった。 この支援がた失われたことが、 大きな誤
りであったと判明するまで数十年が経過した。 当時は誰もその重要性に気付くことのないまま、 両
国の産婦たちらは「無痛分學」を求めて病院へ殺到していった。 」現代の日本がまさに、今同じ状況
である。
日本でも病院出産になって、 同様のことが起こっている。 自宅出産は、我が家の布団の上で行な
われ、 小さい頃から良く知った産詞さんが、1 対 1 ケアで母をほめてリラックスさせオキシトシンを出
させてくれて、 自分で産あことができた> >ところが、 病院出産では、 初めての陣痛室で陣痛が進
んで全開近くになるまで一人にされて不安が高じしてくると、 陣痛が速のくこともよくある。 痛みを我慢
しながら全開近くになるまでいきまないように我慢をするように指導され、 全開近くになると、 自分が
産まれて初めて入る分學室に入り、 恥ずかしい格好でお股を広げて分學台に乗り緊張する。 外来
で見ていただいた産科の先生でない先生が付くことも多く、 また見知らぬ助産師さんが交代で頑張
れと応援してくれるが、 不安のためになかなかオキシトシンが出ない。 そのため陣痛がうまく来ない
と、オキシトシンの点滴を受け、 強い痛みによりパニックになるお母さんも多い。 また、病院出産の
始まりの頃は、 第2期(子宮口が全開から既出まで) を短くするために全例会陰切開をしていた病
院も多く、 分學後はお下の痛みが続いて、 母乳もゆっくりあげられないと言うお母さんも多かった。
日本の歴史上始めて医療施設分将がほとんどを占めるようになってから 50 年近くが経った。 今
40 蔵台の母親たち(2005 年の読売テレビのビデオに出ていた方々)を生んだ祖母たらちは、この大
きな変化を受けた最初の世代である。 医師と見知らぬ助産師による分學台を用いたお産で、さらに
完全母子異室制であった。 (図5)
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