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「医療保険制度の将来構想の検討のための調査研究Ⅰ(制度の変遷と将来構想の検討)検討委員会報告書」 (50 ページ)
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公開元URL | https://www.kenporen.com/press/ |
出典情報 | 医療保険制度の将来構想の検討のための調査研究Ⅰ(5/17)《健康保険組合連合会》 |
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4 . さ ら な る制 度 拡 充 か ら 、 国 民 皆 保 険 の 実 現 へ ( 1 9 5 2 年 ~ 1 9 6 1 年 )
財政悪化が深刻な政府管掌健康保険や国民健康保険への国庫負担拡充で安定化を図りつつ、日雇労働者など各種の新制度を整備。被用者保険
の財政調整議論を受け、健保連は自ら健保組合の改革を提起。そして、政府の「国民皆保険化計画」のもと、新たな国民健康保険法の制定を経て、
1961年4月、国民健康保険の全市町村実施により国民皆保険の実現に至った。
この10年
年間の主な動き
年月
背景、主な動き
1952年(昭和27年)
町村職員恩給組合発足。診療報酬引き上げをめぐり保険医総辞退騒動。
1953年(昭和28年)
健康保険法改正(強制適用事業所の範囲拡大)。
国民健康保険の給付費に国庫負担2割導入。日雇労働者健康保険法制定(政府が保険者)。私立学校職員共済組合法制定。
1954年(昭和29年)
政管健保の財政悪化を受け定額国庫補助10億円。
1955年(昭和30年)
国民健康保険法改正(医療費に対する国庫補助2割)。
7人委員会報告書(被用者保険の財政調整。被用者以外は国保に強制加入。差額徴収。入院時食費一部負担)。
1956年(昭和31年)
政府が「国民皆保険化計画」を策定。社会保障制度審議会「医療保険制度に関する勧告」(国民皆保険の実現を提言=被用者
保険と国民健康保険の二本建て。政府管掌健康保険の組合方式への移行。健康保険組合の結核医療費と低所得者部分に国
庫負担。被用者保険、国民健康保険とも7割給付)。
1957年(昭和32年)
健康保険法改正(政管健保の定率国庫補助1割。健康保険組合の国庫補助は実現せず。保険医療機関指定制と保険医登録
制。患者一部負担増額は医師会の反対により実現せず=保険医総辞退騒動)。
1958年(昭和33年)
健保連「組合方式の具体的推進方策基本要綱」(健康保険組合の運営改善、設立推進方策等)。
健康保険組合数が1000に到達(9月。とくにこの時期、総合健康保険組合の増加が顕著)。
国民健康保険法(新法)制定(全市町村義務化。被用者保険以外は強制加入。5割給付。医療費に国庫補助25%=調整交付
金5%を含む。事務費は全額国庫負担)。新医療費体系導入(診療報酬点数1点10円。物と技術の分離。甲表と乙表)。
1959年(昭和34年)
健保連と日本病院協会による短期人間ドックの開始。
1961年(昭和36年)
診療報酬引き上げ、地域差撤廃をめぐり保険医総辞退騒動(実行は回避)。
国民皆保険の実現(4月。全市町村が国民健康保険を実施)
国民皆保険の実現⇒1961年4月の国民健康保険の被保険者数4902万人(国民の過半数)、保険者数3670
■1955年7月岩手県、■1957年1月滋賀県、同7月山形県、■1958年4月石川県、同6月島根県、同10月秋田県、同11月福島県、
■1959年4月福井県、鳥取県、同10月長野県、■1960年1月宮城県、同2月茨城県、同4月栃木県、新潟県、山口県、宮崎県、同6月愛
媛県、同7月富山県、同10月青森県、埼玉県、東京都、岡山県、徳島県、山梨県、大分県、同12月広島県、香川県、福岡県、同12月北
海道、■1961年1月岐阜県、和歌山県、同2月静岡県、同3月兵庫県、同4月群馬県、千葉県、神奈川県、愛知県、三重県、京都府、大
阪府、奈良県、高知県、長崎県、熊本県、佐賀県・・・
⇒ 健康保険組合の加入者数1274万人。政管健保の加入者数1858万人。
5 .国民 皆 保 険 の 実 現 後 、 制 度 改 革 議 論 が 活 発 化 ( 1 9 6 2 年 ~ 1 9 7 1 年 )
国民皆保険制度の実現後、被用者保険と国民健康保険の二本建てを前提にした財政調整論が活発化した。一方、厚生大臣による診療報酬改定の
職権告示事件等を受けて、健康保険組合と健保連が積極的な活動展開。行政訴訟に発展し、社会問題化した。
この10年
年間の主な動き
年月
背景、主な動き
1962年(昭和37年)
社会保険庁の設置。地方公務員共済組合法の制定。国民健康保険の国庫負担拡充(25%から30%へ)。岩手県沢内村が老人と乳
幼児の医療費を無料化。社会保障制度審議会「社会保障制度の総合調整に関する答申および社会保障制度の推進に関する勧告」
(プール制による財政調整、低所得層に対する国庫負担の拡充、7割給付の実現等)
1963年(昭和38年)
国民健康保険法改正(低所得世帯の保険料軽減、国庫負担割合を35%に引き上げ)。制限診療の撤廃(健康保険、国民健康保険
とも療養の給付の期間の3年制限の撤廃)。診療報酬の地域差を撤廃(乙地を甲地並みに引き上げ)。
1964年(昭和39年)
東京オリンピック開催。厚生省「医療保険における総合調整実施の可能性を検討するための試案要綱」発表(医療保険調整基金の創
設。離職者医療制度と老齢退職者医療制度、家族給付率引き上げ等に要する費用をまかなう)。船員保険法制定。
1965年(昭和40年)
神田厚生大臣が中医協答申を逸脱する診療報酬9.5%引き上げを職権告示(1月)。支払側委員総辞職。
1966年(昭和41年)
国民健康保険法改正(国庫負担割合を45%に引き上げ)
1967年(昭和42年)
健康保険臨時特例法成立(患者一部負担の増額。薬剤一部負担の導入。政管健保の保険料率引き上げ。2年間の時限立法)。
厚生省「医療保険制度改革試案」発表(被用者保険と地域保険の二本建て。被保険者本人入院10割給付。外来7割給付。家族7
割給付。被用者保険の医療費2分の1財政調整。現物給付と出来高払いを原則)。⇒各方面から否定的な反応。
1968年(昭和43年)
国民健康保険の7割給付を完全実施。
1969年(昭和44年)
健康保険臨時特例法の延長法案が一転廃止。健康保険法改正(患者一部負担を本則に規定、薬剤一部負担の廃止等)。
厚生省が「老人保健制度要綱試案」発表。自民党「国民医療対策大綱」(社会保険方式を中核、保険料負担の均衡、給付の改善と
格差是正、地域保険と職域保険と老齢保険の三本建て。家族を地域保険へ移管。業務上傷病の職域保険への移管)。
1971年(昭和46年)
社会保障制度審議会の答申(被用者保険と地域保険の二本建て、被用者保険と地域保険はそれぞれ財政調整、プール制)。
中医協「審議用メモ」を機に日本医師会が保険医総辞退を決定。7万人を超える保険医が辞退届。医療保険制度統合の主張も。
健保連の積極的な活動展開
1963年…健保連が健康保険制度調査会の報告を発表 ⇒ 職域保険と地域保険の二本建て。職域保険は組合方式を主体。プール制は経営意欲を阻害。
保険者の自主的経営体制基盤のうえで考えるべき。健保連を中核として共同事業体制確立の方向をとるべき(法定準備金の共同保有、共同疾病基金、共
同保健施設事業の3事業を構想)。
1965年…職権告示を受け、4健康保険組合(安田、保土谷化学、全国食糧、三井)と健保連が行政訴訟を提訴。4組合は告示の効力停止(東京地裁)。
健保連は当事者適格を欠くとして棄却。4組合には従前の点数を適用=二本建て診療報酬。医師会は自由診療、診療拒否(約500件)の対応。入院を拒否
された被保険者が死亡する事件(岩手医大事件)が発生し、支払側は「法と生命を守る」主張。東京高裁が地裁決定を取り消し、4組合の訴えを棄却(4組合
限定では職権告示の効力停止ほどの緊急性はない)。二本建て診療報酬の解消、混乱の終息へ。
1968年…健康保険組合連合会が見解を発表(被用者保険と地域保険の二本建て。組合方式を基本。9割給付。国庫負担投入。政管健保の改革がないま
ま財政調整には反対。診療報酬のモノと技術の分離)
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財政悪化が深刻な政府管掌健康保険や国民健康保険への国庫負担拡充で安定化を図りつつ、日雇労働者など各種の新制度を整備。被用者保険
の財政調整議論を受け、健保連は自ら健保組合の改革を提起。そして、政府の「国民皆保険化計画」のもと、新たな国民健康保険法の制定を経て、
1961年4月、国民健康保険の全市町村実施により国民皆保険の実現に至った。
この10年
年間の主な動き
年月
背景、主な動き
1952年(昭和27年)
町村職員恩給組合発足。診療報酬引き上げをめぐり保険医総辞退騒動。
1953年(昭和28年)
健康保険法改正(強制適用事業所の範囲拡大)。
国民健康保険の給付費に国庫負担2割導入。日雇労働者健康保険法制定(政府が保険者)。私立学校職員共済組合法制定。
1954年(昭和29年)
政管健保の財政悪化を受け定額国庫補助10億円。
1955年(昭和30年)
国民健康保険法改正(医療費に対する国庫補助2割)。
7人委員会報告書(被用者保険の財政調整。被用者以外は国保に強制加入。差額徴収。入院時食費一部負担)。
1956年(昭和31年)
政府が「国民皆保険化計画」を策定。社会保障制度審議会「医療保険制度に関する勧告」(国民皆保険の実現を提言=被用者
保険と国民健康保険の二本建て。政府管掌健康保険の組合方式への移行。健康保険組合の結核医療費と低所得者部分に国
庫負担。被用者保険、国民健康保険とも7割給付)。
1957年(昭和32年)
健康保険法改正(政管健保の定率国庫補助1割。健康保険組合の国庫補助は実現せず。保険医療機関指定制と保険医登録
制。患者一部負担増額は医師会の反対により実現せず=保険医総辞退騒動)。
1958年(昭和33年)
健保連「組合方式の具体的推進方策基本要綱」(健康保険組合の運営改善、設立推進方策等)。
健康保険組合数が1000に到達(9月。とくにこの時期、総合健康保険組合の増加が顕著)。
国民健康保険法(新法)制定(全市町村義務化。被用者保険以外は強制加入。5割給付。医療費に国庫補助25%=調整交付
金5%を含む。事務費は全額国庫負担)。新医療費体系導入(診療報酬点数1点10円。物と技術の分離。甲表と乙表)。
1959年(昭和34年)
健保連と日本病院協会による短期人間ドックの開始。
1961年(昭和36年)
診療報酬引き上げ、地域差撤廃をめぐり保険医総辞退騒動(実行は回避)。
国民皆保険の実現(4月。全市町村が国民健康保険を実施)
国民皆保険の実現⇒1961年4月の国民健康保険の被保険者数4902万人(国民の過半数)、保険者数3670
■1955年7月岩手県、■1957年1月滋賀県、同7月山形県、■1958年4月石川県、同6月島根県、同10月秋田県、同11月福島県、
■1959年4月福井県、鳥取県、同10月長野県、■1960年1月宮城県、同2月茨城県、同4月栃木県、新潟県、山口県、宮崎県、同6月愛
媛県、同7月富山県、同10月青森県、埼玉県、東京都、岡山県、徳島県、山梨県、大分県、同12月広島県、香川県、福岡県、同12月北
海道、■1961年1月岐阜県、和歌山県、同2月静岡県、同3月兵庫県、同4月群馬県、千葉県、神奈川県、愛知県、三重県、京都府、大
阪府、奈良県、高知県、長崎県、熊本県、佐賀県・・・
⇒ 健康保険組合の加入者数1274万人。政管健保の加入者数1858万人。
5 .国民 皆 保 険 の 実 現 後 、 制 度 改 革 議 論 が 活 発 化 ( 1 9 6 2 年 ~ 1 9 7 1 年 )
国民皆保険制度の実現後、被用者保険と国民健康保険の二本建てを前提にした財政調整論が活発化した。一方、厚生大臣による診療報酬改定の
職権告示事件等を受けて、健康保険組合と健保連が積極的な活動展開。行政訴訟に発展し、社会問題化した。
この10年
年間の主な動き
年月
背景、主な動き
1962年(昭和37年)
社会保険庁の設置。地方公務員共済組合法の制定。国民健康保険の国庫負担拡充(25%から30%へ)。岩手県沢内村が老人と乳
幼児の医療費を無料化。社会保障制度審議会「社会保障制度の総合調整に関する答申および社会保障制度の推進に関する勧告」
(プール制による財政調整、低所得層に対する国庫負担の拡充、7割給付の実現等)
1963年(昭和38年)
国民健康保険法改正(低所得世帯の保険料軽減、国庫負担割合を35%に引き上げ)。制限診療の撤廃(健康保険、国民健康保険
とも療養の給付の期間の3年制限の撤廃)。診療報酬の地域差を撤廃(乙地を甲地並みに引き上げ)。
1964年(昭和39年)
東京オリンピック開催。厚生省「医療保険における総合調整実施の可能性を検討するための試案要綱」発表(医療保険調整基金の創
設。離職者医療制度と老齢退職者医療制度、家族給付率引き上げ等に要する費用をまかなう)。船員保険法制定。
1965年(昭和40年)
神田厚生大臣が中医協答申を逸脱する診療報酬9.5%引き上げを職権告示(1月)。支払側委員総辞職。
1966年(昭和41年)
国民健康保険法改正(国庫負担割合を45%に引き上げ)
1967年(昭和42年)
健康保険臨時特例法成立(患者一部負担の増額。薬剤一部負担の導入。政管健保の保険料率引き上げ。2年間の時限立法)。
厚生省「医療保険制度改革試案」発表(被用者保険と地域保険の二本建て。被保険者本人入院10割給付。外来7割給付。家族7
割給付。被用者保険の医療費2分の1財政調整。現物給付と出来高払いを原則)。⇒各方面から否定的な反応。
1968年(昭和43年)
国民健康保険の7割給付を完全実施。
1969年(昭和44年)
健康保険臨時特例法の延長法案が一転廃止。健康保険法改正(患者一部負担を本則に規定、薬剤一部負担の廃止等)。
厚生省が「老人保健制度要綱試案」発表。自民党「国民医療対策大綱」(社会保険方式を中核、保険料負担の均衡、給付の改善と
格差是正、地域保険と職域保険と老齢保険の三本建て。家族を地域保険へ移管。業務上傷病の職域保険への移管)。
1971年(昭和46年)
社会保障制度審議会の答申(被用者保険と地域保険の二本建て、被用者保険と地域保険はそれぞれ財政調整、プール制)。
中医協「審議用メモ」を機に日本医師会が保険医総辞退を決定。7万人を超える保険医が辞退届。医療保険制度統合の主張も。
健保連の積極的な活動展開
1963年…健保連が健康保険制度調査会の報告を発表 ⇒ 職域保険と地域保険の二本建て。職域保険は組合方式を主体。プール制は経営意欲を阻害。
保険者の自主的経営体制基盤のうえで考えるべき。健保連を中核として共同事業体制確立の方向をとるべき(法定準備金の共同保有、共同疾病基金、共
同保健施設事業の3事業を構想)。
1965年…職権告示を受け、4健康保険組合(安田、保土谷化学、全国食糧、三井)と健保連が行政訴訟を提訴。4組合は告示の効力停止(東京地裁)。
健保連は当事者適格を欠くとして棄却。4組合には従前の点数を適用=二本建て診療報酬。医師会は自由診療、診療拒否(約500件)の対応。入院を拒否
された被保険者が死亡する事件(岩手医大事件)が発生し、支払側は「法と生命を守る」主張。東京高裁が地裁決定を取り消し、4組合の訴えを棄却(4組合
限定では職権告示の効力停止ほどの緊急性はない)。二本建て診療報酬の解消、混乱の終息へ。
1968年…健康保険組合連合会が見解を発表(被用者保険と地域保険の二本建て。組合方式を基本。9割給付。国庫負担投入。政管健保の改革がないま
ま財政調整には反対。診療報酬のモノと技術の分離)
46