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【参考資料2】長谷川参考人提出資料 (43 ページ)
出典
公開元URL | https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_49021.html |
出典情報 | 精神保健医療福祉の今後の施策推進に関する検討会(第4回 1/15)《厚生労働省》 |
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特集
「強制入院」の体験を語る
重
苦しい梅雨の真っただ中だった。私は精
がいい存在だ」
「死んでつらさを無にしたい」
神科に強制入院(措置入院) となり、入
という気持ちは深く胸に刻まれ、どこにいて何
院期間の 3 週間、目一杯、身体拘束を受けて
をしていようが通奏低音として私の人生のうち
過ごした。シャバに出てきた後、幾人かの友だ
に鳴り響いていた。
ちに笑いながら話した。
「精神科で拘束受けた
16 歳でついに家庭にも学校にも居られなく
んだけど。ヤバかったぁ」
。ヘラヘラするしか
なった私は、支援につながった。それ以来、揺
なかった。なぜなら、あの時の圧倒的な絶望感
らぎながらも細い糸を綱渡りしてきた。生きる
や怒りや悲しみや孤独は、こうしてあらゆるネ
ための足がかりは、毎日通う保健室、そして、
ガティブな単語を並べてみてももどかしくなる
オーバードーズとリストカット。オーバードー
ほど言葉にできないものであり、言葉にできな
ズは、胸をプレス機で潰されるかのようなひど
いのだから人に伝えようなんて考えにも無理が
い感情を意識ごと飛ばすのに役立ち、リスト
あるからだ。
「拘束ってただ動けないだけで
カットは、切る痛みや流れる血の赤さと温かさ
しょ、それくらい大丈夫でしょ」という感覚を
によって一時でも意識の向く方向を自分の感情
持つ人がいかに多いかを、私は知っている。そ
から体の感覚へとそらすのに役立つ。これらが
れはまず、入院期間中接する医療者の内に目の
なければ私はとっくに死んでいた。それほど生
当たりにした。
きるのはキツかった。
言
葉を尽くしても伝わらないことを知りな
ハタチまで生きているはずがない。そう思っ
がら、今こうしてキーボードを叩いてい
ていた私があらゆる手段を使ってその歳を超
るのは、正直に言えば復讐心、柔らかく言えば
え、支援につながってからは 6 年余りが経っ
悔しさからである。私を拘束した人たちは、今
た。存在するべくもなかった周りの世界への信
日も患者たちを拘束しながら、退勤時間になれ
頼感を地層のように僅かずつ積み重ねていき、
ば職場を出て家に帰り、一家団欒を楽しむのか
幸運にも安全な親と離れた住まいを得てこころ
もしれない。彼ら彼女らにとって、私はごまん
が羽を伸ばせるようになった矢先のことだった。
といる拘束すべき患者の 1 人に過ぎなかった
だろう。しかし私はといえば、平板な言葉かも
しれないが「人権を奪われた」としか言えない
3 週間のうちに、それによって自分の一部が死
んでしまった人間として、今を生きている。拘
束される前の自分には決して戻れない、何かが
入
院開始、すなわち拘束開始の X デーか
ら 5 日前。灰色の空模様にいざなわれて
気分が下がっていた私は、その日深めのリスト
損なわれた状態で還ってきたことを、果たして
カットをして、総合病院の救急外来に運ばれ
「生き延びた」と簡単に言えるだろうか。
た。処置を受けた後、普段の精神科の主治医と
話し合い、休息を取って調子を取り戻すことや
同居人のレスパイトが必要だということにな
私
り、主治医と共に入院を決めた。主治医が探し
は困難を抱えた家庭で育った。詳細はこ
てくれた病院の都合で入院まで 5 日かかるこ
こでは記さないが、
「自分は消えたほう
とになったが、結局その 5 日間のうちに調子
閲覧情報:医学書院 10001
43
vol.24 no.6 精神看護 Nov 2021
519
2024/12/11 10:32:22
「強制入院」の体験を語る
重
苦しい梅雨の真っただ中だった。私は精
がいい存在だ」
「死んでつらさを無にしたい」
神科に強制入院(措置入院) となり、入
という気持ちは深く胸に刻まれ、どこにいて何
院期間の 3 週間、目一杯、身体拘束を受けて
をしていようが通奏低音として私の人生のうち
過ごした。シャバに出てきた後、幾人かの友だ
に鳴り響いていた。
ちに笑いながら話した。
「精神科で拘束受けた
16 歳でついに家庭にも学校にも居られなく
んだけど。ヤバかったぁ」
。ヘラヘラするしか
なった私は、支援につながった。それ以来、揺
なかった。なぜなら、あの時の圧倒的な絶望感
らぎながらも細い糸を綱渡りしてきた。生きる
や怒りや悲しみや孤独は、こうしてあらゆるネ
ための足がかりは、毎日通う保健室、そして、
ガティブな単語を並べてみてももどかしくなる
オーバードーズとリストカット。オーバードー
ほど言葉にできないものであり、言葉にできな
ズは、胸をプレス機で潰されるかのようなひど
いのだから人に伝えようなんて考えにも無理が
い感情を意識ごと飛ばすのに役立ち、リスト
あるからだ。
「拘束ってただ動けないだけで
カットは、切る痛みや流れる血の赤さと温かさ
しょ、それくらい大丈夫でしょ」という感覚を
によって一時でも意識の向く方向を自分の感情
持つ人がいかに多いかを、私は知っている。そ
から体の感覚へとそらすのに役立つ。これらが
れはまず、入院期間中接する医療者の内に目の
なければ私はとっくに死んでいた。それほど生
当たりにした。
きるのはキツかった。
言
葉を尽くしても伝わらないことを知りな
ハタチまで生きているはずがない。そう思っ
がら、今こうしてキーボードを叩いてい
ていた私があらゆる手段を使ってその歳を超
るのは、正直に言えば復讐心、柔らかく言えば
え、支援につながってからは 6 年余りが経っ
悔しさからである。私を拘束した人たちは、今
た。存在するべくもなかった周りの世界への信
日も患者たちを拘束しながら、退勤時間になれ
頼感を地層のように僅かずつ積み重ねていき、
ば職場を出て家に帰り、一家団欒を楽しむのか
幸運にも安全な親と離れた住まいを得てこころ
もしれない。彼ら彼女らにとって、私はごまん
が羽を伸ばせるようになった矢先のことだった。
といる拘束すべき患者の 1 人に過ぎなかった
だろう。しかし私はといえば、平板な言葉かも
しれないが「人権を奪われた」としか言えない
3 週間のうちに、それによって自分の一部が死
んでしまった人間として、今を生きている。拘
束される前の自分には決して戻れない、何かが
入
院開始、すなわち拘束開始の X デーか
ら 5 日前。灰色の空模様にいざなわれて
気分が下がっていた私は、その日深めのリスト
損なわれた状態で還ってきたことを、果たして
カットをして、総合病院の救急外来に運ばれ
「生き延びた」と簡単に言えるだろうか。
た。処置を受けた後、普段の精神科の主治医と
話し合い、休息を取って調子を取り戻すことや
同居人のレスパイトが必要だということにな
私
り、主治医と共に入院を決めた。主治医が探し
は困難を抱えた家庭で育った。詳細はこ
てくれた病院の都合で入院まで 5 日かかるこ
こでは記さないが、
「自分は消えたほう
とになったが、結局その 5 日間のうちに調子
閲覧情報:医学書院 10001
43
vol.24 no.6 精神看護 Nov 2021
519
2024/12/11 10:32:22